きおく

橋を渡り、街道は左に折れる。
その目の前にはかつての映画館、今は寄席になっている、その脇に左手に細い道が通る。

水路を覆う側溝の蓋の隙間から、せせらぎが聞こえる。


その先に、かつて三浦哲郎が住んでいたらしい、と母は話ていた。「忍ぶ川」の主人公の名が、姉の名の由来だ。

母は高校時代にファンレターを書いたらしいが、返事ななかったことを今も根にもっているらしい。なんか、笑った。


道なりに進み、長府ボイラーの看板がある雑貨店を過ぎ、信号を越えるとイチノベパンの本社。

まだ店舗は開いておらず、でも香ばしい匂いが辺りに漂っている。

あのおばさんに会いたいが、営業時間はまだ先だろうな。内側からカーテンが掛けられた古い木製の引き戸を眺め、その前を後にする。


空は更に青く、日差しは強く。

少しづつ影が短くなり、歩いた分だけ日が高くなっていく。


自動販売機が2つ並ぶ店先を覗く。

営業しているようだ、よかった。

自動ドアが開き、薄暗い店内へ。

人影はなく、しばらくして奥から挨拶の声。

あのお爺さんではなく、女性の声、お婆さん、と言っては失礼かな。奥さんだろうか。

「今日はいい天気ですねぇ」

かなり怪しい出で立ちの明らかなよそ者の僕にも、おそらく普段通りの挨拶で応じてくれる。

「そうですね、暑いくらいですね」

二言三言、言葉を交わし、店内を歩く。
仏花は無いみたいだな。缶のお茶と鯖の缶詰、前回食べ損なった南部せんべいを購入。

代金のやりとりで、軽く手に触れてみる。

その人の存在の記憶に力を与える。


店を出て、店舗前の自動販売機でペットボトルの水を購入し、道を横断し水路に沿って続く緩い坂道を上り始める。