さんぽ


晴れた日も、風の強い日も、どんなに辛いことがあった日も、散歩には行く。

そんな生活も、もうすぐ10年。

いなくなれば、きっと寂しい。



そんな書き出しで昨年の11月から日記を書き始めて、もう半年。


先月の20日に過去の日記は全て失われてしまった。
やむをえない事情で早急に削除したものの、その必要も無かった事に、後に気づかされる。


日射しはさほどではないものの、やや湿度が高いのか、単なる寝不足のせいか、やたらと汗をかきながら日課をこなす。

遊歩道を覆うように伸びた桜の枝が、ひと心地つける僅かな時間を与えてくれる。

時折撫でるように吹き付ける風が、汗をかいた体から緩やかに体温を奪ってくれる。


10年こうして歩き続けるうちに、時折顔を合わせていた犬達は次々と先立って行き、当初から知っている仲間はほとんどいなくなってしまった。

生まれつき心臓が悪いこいつは、正直ここまで元気でいることが不思議だ。

「8歳を過ぎればおとなしくなるよ」

他の飼い主のその言葉を信じ、期待していたけれど、今だに仔犬の頃と変わらない程よく歩く。

人生の何割かを、こいつの散歩に捧げている。
大袈裟でなく。


過去の日記を読み返す事は無かったけれど、自分の言葉の遍歴を、ずっと後になってから見て見たかった気もする。

どこかに消えてしまった言葉は、どこになにをのこしたのだろうか。


飼い主どうしの会話で、動物病院の話題をよく聞く。

動物が好きで始めた獣医師も、実際は飼い主との人間関係に苦しめられて、だんだんとその姿勢が変わって行く。

結果治療が及び腰になり、救えるものも救えないようになってしまうようだ。

医師に頼るしかないのは確かだが、余りにも自分で考えようとしない、委すことによって責任の全てを医師に負わせる飼い主が多いと思う。

全く自分の意見や考えが無い、要はペットの事を見ていない、感じることができない、という事ではないかと思う。


他者に対して共感する能力が欠落している。

結果、社会に対し害悪をもたらす。


自らの意思によってのみ、自らは拘束される。
それを受容する能力の無いひとが増えているように感じる。


この小さな命に対する責任を、歩き続けた10年分、引き受ける。

たったそれだけの事。



失われた言葉の代わりに、初めて交わした言葉を受け取る。